時をかける写真
こんにちは、ニコノスです。
ほぼ一年ぶりの投稿であります。
勉強が忙しくなるので、2018年までフィルムにも長期休暇を与えます。
— ニコノス (@nikonosF) 2017年5月6日
戻ってきたらまた話しかけて頂けると嬉しいです!#今日の空 pic.twitter.com/j5KUAmTC3S
5分ほど私自身の話に付き合って貰いましょう。
2017年4月、翌年春の試験に備えてネガの現像を一切しないと宣言した。
Twitterやブログで遊ぶのも禁止。
とはいえ、10月くらいまで毎日のようにカメラは持ち歩いていたし、投稿は控えたにせよSNSは隔日でチェックしていた。
何とか追い込みを掛け試験で良い結果を出し、この一年で撮ったフィルム約50本を現像したところ、あることに気付いた。
それは、明確な目的を持っていた時、つまり写真を撮るために出掛けた時の写真と、惰性で撮った写真(出掛けたついでに撮った写真)とでは歴然の差があること。
だから今後は目的のあるときだけ、カメラを持ち出すことに決めた。
これは私にとって大きな収穫だ。
そして、このことに気付かせてくれた写真フィルムという媒体にも感謝している。撮ったその日にゴミ箱行きだったら、後で(すなわち今)それについて考えることも無かっただろう。
私がこの話を通して伝えたいのは、記録の大切さだ。
ちょっと大仰な話になるが、人間の記憶というものはいとも簡単に歪められてしまう。多くは他人によって、ではなく自分自身によって。かつての失敗を忘れ、より美しく、単純に書き換えてしまう。
その証拠に、老人たちの昔話は多く「厳しかったが道徳と人情に溢れた旧き良き時代」への賛辞である。
明日をより良いものにしたいならば、私達は戦争を美化してはいけないように、過去を単純に美化せず、過去から学ぶべきだ。
美化できるのは、それが遠くにあるとき、あるいは過ぎ去ったときのみである。どんな過去も当時においては厳しい「今」でしかないからだ。
記録は、私たちの記憶を忘却や歪曲から守るためにある。過去は記録と向き合ったときのみ私たちの前に現実味を持って現れるのだ。
↓ここから写真の話↓
デジタルカメラの消去機能は、記録を残すという観点から見ると悪である。
作品づくりという観点から見れば、気に入らなければ消すのがいい。有名な写真家で、若い頃の作品をドラム缶いっぱい詰めて焼いたが後悔していないという話も聞いたことがあるし、より良いものを創るのが使命なのだから。
しかし記録が目的となると話は違ってくる。ボケボケ、真っ白、真っ黒など完全な失敗ならまだしも、対象の写っているものでさえ駄目なら消すという態度は、記録に恣意的な解釈を加えてしまうことになる。
それが悪意に基づかないにせよ、消したことはいつか忘れてしまい、消えた写真はもう戻らない。
フィルム写真の良いところは、ここにこそあると思う。
少しくらい見映えのしない写真でも、シートからフィルムを引っ張り出してそのコマだけ切り捨てるというのは面倒で、結局残ってしまう。
忘れた頃に出て来て、あの頃のことに想いを馳せても良い。
↓ここからカメラの話↓
高校のとき、部室にあった旧いカメラで仲間を撮り始めたのが私の写真趣味の最初である。
このカメラです↓
愛しのタクマー with Pentax SP - ニコノスの写真日記
後輩が掃除をしていたら2本のフィルムが出て来たそうなので、母校まで取りに行った。
撮ってから3年以上経っているし、当時はド・シロートだったので写っているか不安だったが…
高校の中庭。懐かしい…
長い放置期間にしては、発色も悪くない。
よく見るとブレていたりする。
裏蓋を開けてしまったか何かで、消えかけている画像もあったが、当時の友人や情景がそのままに残っていた。
写真を見ると、いい思い出だけでなく悪い記憶、例えば片想いの人にフラれたままぎこちない関係が続いたことを思い出してしまう(実話)。
それも含めて新たに自分を見つめ直す機会になったので、写真を趣味にしていて良かったと思う。フィルムを見つけてくれた後輩に感謝だ。
これからも、フィルム写真を続けようと思う。そしてこれからもニコノスを宜しくお願いしますm(._.)m
Bronica EC-TL Zenzanon100/2.8